絵を描く理由② 描かない自分じゃなくなった経緯
小さなころから絵を描くのが好きでした。
小学校のころから、手芸や図工が大好きでした。
ハンドメイド品の販売は4年ほど前からやっています。
そんな私が、イラストを使ったモノづくりを始めたのは、ほんの数か月前です。
なぜこれほどまでに時間がかかったのか、昨日はイラストとハンドメイドを結びつけるまでの私なりの葛藤についてをお話ししました。
自分の描くものに自信が持てず、特別だと思えなかった。
今日は、そんな私がなぜ今年になって初めて、唐突にイラストを使ったハンドメイドを始めたのかを描きたいと思います。
イラストの創作を始めた理由
私ができることは、案外「誰でもできること」ではなかった
…小さいころから当たり前のように絵を描き続けていたから特別なことだと思わなかった。
これは、自分にとっては盲点としか言いようがありません。
芸術系の高校・大学で学生時代を過ごし、周囲はある程度創作力や画力のはる人たちばかりでした。
このくらい誰でも思いつく、このくらい誰でも描けると思ってしまうのは、それだけ自分にとって苦無く思いついたり描いたりしていたから。
もっとひねりがないといけない、もっとパターン出しをしてから本番に入ろう、そうこうしている間に疲れ果てることばかりでした。
すぐにひらめくという事自体が、長年の間で養われてきたことだと自覚していませんでした。
好きでやりつづけていたことがいつの間にか自分の力になっていて、それがあることが当たり前のように感じる。
泳ぎが得意な人は、泳げない人の感覚に気づきにくいということに似ているかもしれません。
美術を志す人々がいる環境で過ごすうちに、当たり前にできることのボーダーラインが自然と吊り上がっていたのかもしれません。
決して成績は劣る方ではありませんでしたが、どこの世界にもさらにレベルの高い層が存在するものです。
絵は不思議なもので(絵に限ったことではありませんが)描けるようになればなるほど自信をもって「描ける」と言う人が少なくなります。
もっと描ける人を、もっとすごい作品を知っているからです。
他人に認められることで得られた自信
昨日の日記で話しましたが、私が自信を大きく失った原因は母の何気ない一言です。
ですから、身内の評価や親しい人の評価ほど信用できません。
仲の良い子はひいき目に見てしまうのが人間です。たとえそこから出た感想が本物でも、私は信じることができません。
社会人になってからは、趣味の絵を描くことはごく稀でした。
描きたいと思えるものがなく、仕事で依頼を受けた絵ばかりを描いていました。
友人に仕事として絵を依頼されました。
「もったいない」とか「もっと描けばいいのに」とか、日頃から私にしつこく絵を描かせようとするので、「仕事以外では描けない」とでも言ったのかもしれません。
どうして彼女はここまでして私に絵を描かせようとするのか。
何度も私の絵が好きだからと言われ、それを純粋に信じることができませんでした。
依頼だというのに、最低限の指定だけで「イメージして好きに描いてほしい」と言われたり、初めは私にえのリハビリをさせたいとか、ただ単に描かせたいだけだとしか受け取れませんでした。
ですが、1度や2度ではなく何度も依頼されるので、それほど生活が楽なわけでもないのに、ただ私に描かせたいだけのボランティアで依頼してくれているのではないんだな、ということを感じ始めました。
依頼ではチラシやDMのイラスト込みのデザインを受けました。
デザインの勉強や経歴が全くなかったので、一から勉強することも、テーマに合わせて絵を描くこともとても楽しく取り組むことができました。
そのうち、そのチラシやDMを見た何人かの方から、「絵で雑貨やアクセサリーはつくらないの?」というようなことを言われ、ようやく「あ、やってもいいんだな」と思えました。
私の作風に似たハンドメイド品は、案外世の中にあふれていなかった
こうして、イラストによるハンドメイドが求められているということを実体験的に知り、何か作ってみようと思い立ったとき、参考にイラスト雑貨を見て回りました。
ハンドメイド品販売で有名なminnneなどで検索してみると、案外写実的なイラストを作品にしている人は見当たりませんでした。
デフォルメされたかわいらしい系の動物イラストや、緻密に描きこまれた幻想的な絵など、強い作家性を感じられるものが並ぶ中、案外私のようなシンプルで素朴な絵を見かけることが少なかったのです。
友人には「ある意味メーカーらしい作風」と言われ、ほめられているのかどうか分かりませんでしたが、やってる人が少ないのであれば、やってみてもいいかもしれないと思うようになっていきました。
色々手を出してみたけど、結局何よりスキルの高い技術が絵だった
昔から手を動かして何か作ることが好きで、よほど特別な技法でない限りそれなりに器用にできてしまうが故の弊害がありました。
目新しさや流行、その時々のハマりに流されがちで、ハンドメイドを楽しんではいるものの、半年後には全く別の物を作っていることがしょっちゅうでした。
厄介なことに、創作の最中はこれからもこれでやっていこう!という気持ちでいるので、材料を大量買いしてしまい、そして大量に無駄にしてしまうのです。
その時々で自分が良いと思った物を作っているにも関わらず、執着もなくぷっつりと熱意が途絶えればおしまいです。
本業とハンドメイドを主軸に暮らしていけたら…と思っていながら、確固たるものづくりに対する執着がなく、収入も不安定でした。
友人にチラシの仕事をいくつか貰ったころ、「そういえば、長いこと続けているのも絵ぐらいだなぁ」とふと思ったのです。
流行に流されやすく、冷めたら再び熱することの少ない私が、ここまで続けていることがあることが奇跡だと思いました。
このような様々な経緯があって、イラストによる創作をやってみてもいいんじゃ?と思うに至りました。
(…長かった。)
なぜ今までこんなにイラストでハンドメイドをすることをかたくなに拒んでいたのかわかりません。
かたくなに拒む、というより、やりたいという気力がそもそも沸かないという無関心に近い状態ですらありました。
イラストでモノづくりをするようになってからは、ありがたいことに少しずつファンになって下さる方もでてきており、自分の中でも自信につながっています。
作るものをあれこれ変える作家のファンになれっていう方が難しい話だと、今は思います。
自分の絵柄と、作風と、使い続けたいと思えるものを作る。
その中で新しいものを絶えず作り出してゆく。
だいぶん寄り道しましたが、私らしいモノづくりがようやく見えてきたかな、と思っています。
イラストでハンドメイドを続ける意義
誰もしていないことは難しい。せめてしている人が少ないことをやろう
ハンドメイドのブームが高まる中、だれもやっていないことは逆に探す方が難しい。
それでも、私のような作風の人は少数派だと分かったし、私に描ける絵は他の誰でもない私からしか生まれることがないもの。
そういった意味では、イラストは唯一無二感を持たせるための大きなファクターだと今は思っています。
誰もやっていないことをくまなく探すより、素直に描きたいと思えるものが見えている今に喜びを感じながら創作していければと思っています。
自分にしかできないことを探すのは難しい。せめて自分の中で特に秀でていることを武器にしよう
誰もやっていないことを探すのが困難であるのと同時に、自分にしかできないことを探すのも困難です。
広い世の中、私という個人、感覚、感情や表現は私だけの物であることには変わりありませんが、創作するすべて「私にしか作り出せない者」であると補償はできません。
それでも、自分が今までずっと続けてきたこと、自分の中で一番得意な分野を選択してそれで勝負しようと思いました。
何となくできてきまうものではなく、真剣に取り組んで作ったもので。
思えば、絵での創作に目を向けずあちこち寄り道していたのは、一番得意な絵で比べられてダメだったらと怯えていたのかもしれません。
1年間、イラストの創作に本気で取り組んでみよう。
そう思い立って、半年が経とうとしています。
そんな最中にこのような記事を書いていることが、既に手ごたえを感じていることの証明です。
「出来ないと思っていること」と「本当にできないこと」は別
日本人は英語で会話ができないとき、自分を「英語が話せない人間」と評価しますよね。
でも多くの人は「Hello」と言う事が出来る。
アメリカで日本語を話せるか?と街頭インタビューした際、「話せる」と答えた人の多くは日本人と会話することができません。
カタコトで「スシ、テンプラ」「オハヨウゴザイマス」と言える。
これだけで、日本語を話せますと言える人が沢山いるという話を、遠い昔に聞いたことがあります。
厳密にいうとそれは「日本語の単語を発音できる」という程度のことでも、堂々と「できる」と言えることはすごいことだと思いました。
今できることを「これだけしかできない、できないことの方が多い」と捉えるより、「これだけは出来る」と言える方がカッコイイと感じたのです。
私は間違いなく前者ですし、これからもきっと前者の思考を持ち続けると思います。
ですが、できることに蓋をするのはやめようと思いました。
最後に、今回の内容は人によっては自慢に聞こえて腹立たしいかもしれませんが、それは本意ではありません。
これは私が私の持つ能力を卑下することなく認めたという、ただそれだけの話です。
画像は何の関係もないナズナ(2017)顔彩
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